光秀の埋蔵金

「身をも名も 惜しまねばこそ 松の緑色濃き 弥生空 くちなは頭の影をふむ 岩戸茵のその下に こがね三百しろがね千貫」

大垣の隣の隣。山県市の白山神社に行ってきました。明智光秀の墓所でもあります。何十年ぶりの再訪です。初訪は二十代、トレジャーハントに熱中していたころの話です。

岐阜で有名な埋蔵金というと、白川の「帰雲城」と「光秀の埋蔵金」です。いまだかつてあれほど物事に熱中し情報収集したことはありません。あの熱意を勉学に向けることができれば、僕の人生はよほど有意義なものになっていたことでしょう。当時はネットなどありませんから、図書館に資料館に役所に本屋にと日参し、関連地所や関係者の個人宅訪問までやってのけました。卒論の資料収集のためというと、皆、親切に対応してくれました。

結局、帰雲城はとにかく遠いし、埋蔵金のある確率は高いとしても、なにしろ土石流に呑まれた埋没金で、調査掘削には専門器具が必要となるので断念。光秀の黄金に絞りました。

上記の歌は光秀の残したとされる書物の一文です。他にも似たような句が幾つか残っていますが、伝承や伝聞のために除外。場所もこの白山神社が基点だろうと推測したのです。

黄金三百貫に銀千貫。一貫は3.75キログラムです。これだけあればもう仕事する必要なくなります。

惟任日向守光秀。どんな人物だったのでしょうか。僕のごく個人的な見解として、今でいう社外取締役のような立場だったのではと想像します。知識と経験、人脈などを提供し、高額の報酬を得る。当然社長に対しては愛着も尊敬も畏怖も希薄で。そもそも組織力とは、家族的団結力でないないらば、利害関係しかないと僕は思うのです。ですから、信長からの冷遇は当然と受け止められても、衆目の前での打擲(事実だとすれば)という家族的扱いをする矯激な若者など冷めきった目で見下していたことでしょう。本能寺の変での、ドラマや映画などで描かれる逡巡や一大決心など無かったと僕は考えています。

いやはや。当時を思い出してつい暑苦しい文章になってしましました。ご不快の段、平にご容赦。

今まさに松の緑色濃き弥生空。天正長大判金ただ一枚だけでも見つけることができれば、僕は救われるのですがー。

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